015 落書き・魔改造の心理の考察と、現代社会を生きる人々の幸福について。

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小学生の頃、よく教科書の人物画に落書きをして遊んでいた。
大村益次郎や板垣退助なんかは特にやり甲斐のある顔をしていたし、何でもない小説の作者にも色々とやっていた。
私だけではなく、周りの子どもたちも遺憾なくセンスを発揮していたし、日本人の性なのかも知れない。

しかし、こうした行為は決して子どもの単なる悪ふざけではなく、大人であってもやりがちなのだ。

京都大学の折田先生像や、名古屋駅のナナちゃん人形、別府駅前の油谷熊八像をご存知だろうか?
特に折田先生像への魔改造は激しく、原型を留めないレベルの変化を毎受験シーズンにさせられている。
ナナちゃん人形も季節やイベントに合わせてよく衣装替えをしている。
油谷熊八像はまともな方で、ラグビーワールドカップの日本開催に合わせてラグビーユニフォームを着た程度だ。ただ、元から既に笑いの要素が入ったポーズを取っているのだが。

しかし、こうした魔改造の動機は、決して偉大な人物を侮辱しようとして行うものではないのだ。

例えば日本で葬式や通夜でお祭り騒ぎをしようものなら、大抵は「けしからん」と非難されるだろう。しかし場所や文化が変われば、故人の昔話や思い出を語り合い、思いきり楽しく盛り上がってこそ、故人への最高の弔いとすることもある。私としても、自分を送る時にはそんな葬式を開いてほしいと思う。

迷惑をかける為でなく、純粋な遊び心や独創性を以て自分や周囲の人を楽しませようとして行う時、落書き・魔改造は社会の空気を変える力も発揮する。

何をするにも取り締まりが厳しくなった昨今、どうかこうした些細な楽しみを大目に見てほしい。
規制の厳しい社会で縛られ、苦しみ生きる人々の救いの鍵は、ささやかな楽しみを許容する寛容さだと思うのだ。

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