愛知県名古屋市の中心部から北上すること約30km、岐阜県と愛知県の境を木曽川が流れている。その手前の愛知県側の犬山市には、国宝として名高い犬山城がある。ここも以前に訪れた松本城と同じく、天守が国宝指定された五城のうちの一つである。
犬山城には堀はないが、北方を流れる木曽川が防衛と景観の両面に寄与している。
織田信長の叔父である信康が築城し、その後も様々な面々が城主になり、江戸時代初期に犬山成瀬一族が当主となってからは十三代続いた。その後は財団法人の犬山城白帝文庫の所有となった。
この名前は、犬山城の別称が「白帝城」と呼ばれるところから来ていると思われる。
そして死の間際には、家康の眠る日光の東照宮まで行こうとしたと言う。忠臣ここに極まれりというべきか、もはや信者だ。家康は東照大権現として神号を与えられており、死後は神として扱われているので、まさに宗教である。
そしてそれだけの貢献と信心深さがあったこともあり、犬山城を家康から与えられ、犬山城は以後十三代に続いて成瀬一族の所有となった。
四百年近く個人所有をしてきた成瀬一族は何者なのか。初代の成瀬正成は当時の犬山藩の初代藩主であり、徳川家康に仕えた武将だった。
羽柴秀吉との小牧・長久手の戦いでは初陣で首級を挙げ、鉄砲衆の根来衆をまとめ上げて後の根来組を作り上げた。他にも小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原に大阪冬・夏の陣と、以降のあらゆる大戦で活躍してきた英傑だという。
因みにこの正成の遺骨、日光の家康廟の側に葬られたという。生きて日光まで行くことは叶わなかったものの、最後は家康の元に再び帰参することが出来たと言えよう。
故人の思いを汲んだ、生者の粋な計らいに胸が熱くなる。今頃は死後の世界でよろしくやっているのだろうか。約260年も続いた江戸時代の始祖と立役者には、現世での活躍を肴に天上で宴を開いていていただきたい。