052 夏の風物詩 後編 -異文化交流の難しさを考える-

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前編に関連して、今回はトマトを切り口に外国の話をしたい。

スペインのブニョールで行われるラ・トマティーナ(La Tomatina、通称:トマト祭り)では、トマトは正に主役だ。この祭では人々が互いにトマトを投げつけ合い、町中がトマトまみれになる。

起源は不明なものの、現在では収穫祭としての面を持つと言うが、その収穫を喜び神の恵みに感謝するにはあまりにぞんざいな扱いをしている様に思えて仕方がないのは私だけではないはずだ。
スポーツの祝勝会で行われるビールかけやシャンパンファイトに似たものを感じるが、私はこうした文化を支持する立場にまわることがどうにもできない。

私は中・高校でキリスト教(プロテスタント)に触れてきたが、それ以前の生活や感性、そして現在まで続く自転車による自然との触れ合いの結果か、古代神道の「八百万の神」の考え方を強く持っている。
神は自然の中にあり、全てのものに宿るという考えに基くならば、自然=神の恵みのトマトやビール、シャンパンに対する上記の様な扱いはいかがなものか。自然への捧げ物として大地に還していると考えてやや強引に納得するのが私には難しい。

神の恵みへの喜びや感謝の表現の方法は多様に認められても良いのだろうが、神道の立場に立つと受け入れ難い部分がどうしてもあるものだ。
古代からは他国侵略と属州化、現代においても人種差別やLGBTQなど、古今東西を問わず存在する様々な問題のキーとなる「自分と異なる他者の存在を認める」ことの難しさを感じる。

悪意ある差別のない、平和の下の平等という理想を唱えるばかりでは、その理想を実現することは出来ないことはもう誰もが気付いているはずだ。
文化相対主義を念頭に置きつつ、それでも受け入れ難いものに対してどの様に歩み寄っていくのか。無理して相手に迎合したところで何とかなるものでもなく、本当の意味での相互理解には程遠い。

その難題を前に私がただ一つ、無理がなく且つ有効であると思い実践していることは、「食わず嫌い」をしないことだ。
昔は嫌いだった食べ物が大人になったら好きになったり、好きにはならないまでも悪くないなと認められる様になった経験はないだろうか?それと同じ様に、知らずに敬遠していたものの良さや面白さを認められる様になることもあるものだ。
私は幼い頃、椎茸の濃厚な木の香りや苦味、食感がどうにも苦手だったが、今では生も乾燥も食べ、出汁にも好んで使っている。

一人の人間という小さなフィルターを通して巨大な世界を理解するのは難しいのだからこそ、せめてそのフィルターを通る可能性のあるものは出来るだけ多く通してみたい。
「男は度胸!何でも試してみるものさ」

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