大阪で彼と一晩を過ごし、翌朝からは宮津を目指した。
当初はバスを考えていたが、都合の良いバスが見事に満席だった為、JRの特急列車のこうのとりを使うことにした。
京丹後市や福知山市を通過する途上で、大河ドラマ「麒麟がくる」の聖地巡りの案内が電車上からもそこかしこに見つけられた。
福知山城のある福知山市は、丹波平定後の明智光秀の領地であり、当時はそれが放送直前だった。
私が小学校の社会の授業で明智光秀の話を聞いた時は、当時の歴史研究の結果があまり世間に伝わっておらず、明智光秀を単なる裏切り者として認識する風潮があった。
今では、領地における地子銭(土地税・住宅税に相当)の永代免除や、よく氾濫した由良川の治水工事の様な善政が知られ始めて、当時の評価は見直されてきた様だ。
福知山市では「福知山御霊大祭」、亀岡では「亀岡光秀まつり」や「ききょうの里」といったイベントが今もなお開催されており、現代に至るまで領民からの信頼が篤い領主だ。
また、合戦で討ち死にした家臣を列記し、近江国の西教寺に供養米を寄進しているのをはじめ、合戦で負傷した家臣に対する疵養生の見舞いの書状がいくつも残っているという。
最後の本能寺の変の動機については諸説あるが、彼の足利将軍家との繋がりや、領民や家臣からの慕われ方を思うに、単に自身の野望だけで動いたとは考え難い。
織田軍からすれば中途入社の余所者で、旧来からの織田軍の家臣からはあまり快く思われていなかったと言うが、それは明智軍団の家臣にも当てはまるだろう。柴田勝家や丹羽長秀の家臣と比べれば、きっと肩身の狭い思いをしていた筈だ。
軍略に長け、狡猾で頭が良いと言われる光秀が、お世話になった幕府や仲間達の為に、トップに取って替わろうと立ち上がったとすれば、中々に胸が熱くなる話ではなかろうか。
「裏切者の正義」に目を向けることで、歴史の出来事の見方も変わる。
歴史を時代や時の権力者中心の大きな流れの枠で切り取ってしまえば、それは一本道の単なる経過年表に過ぎない。
しかしその流れの深くに目を向けると、多様な登場人物が複雑に絡み合って歴史という名の物語を作り上げているのだ。
人間の歴史は違った人間同士が関わり合って作り、人それぞれにドラマがあり、一本道で終わらない面白さがあるのだと思う。