
会津若松城を後にして、次に我々は大内宿へと向かった。
ここは藁葺き屋根の家屋で有名で、名前の通り昔は宿場町として栄えており、同時に国選定重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。
会津若松城下と日光街道の今市宿を結ぶ下野街道を、会津藩が江戸への最短経路として始めに整備したところで、大内宿は会津若松城下から南に約6里のところに設置された。
これはおよそ約24kmなので、平均的な現代人の歩行速度で考えると、昼過ぎに出発して夕方に到着する1日目の行程といったところだろうか。第一の宿場町として、ちょうど良さそうな設定だ。
当時、大内宿を始めとする街道の宿駅では荷物を運ぶ人馬の交換(継ぎ立て)が行われていて、大内宿はこの継ぎ立てや宿場経営で栄えていた。
しかし、天和3年(1683年)の日光地震で五十里湖が生まれ、下野街道は通行できなくなり、幕末の戊辰戦争で大内宿も大きな影響を受けた。
そこに加えて、明治17年(1884)に新日光街道(現国道118・121号)が整備され、大内宿は宿駅としての機能を失い、養蚕や麻栽培を行う山間の農村集落に変わったということだ。
岐阜県にある白川郷も藁葺き屋根で養蚕が盛んに行われている点で共通しており、そちらも重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、そちらは更に富山県の五箇山と共に、白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。
元・宿場町として人や物の流れの中にあった大内宿と、冬は雪深さの為に人を遮断した白川郷。実際に両方を訪れた私の所感としては、
・どちらも観光客でかなり賑わっている
・古き良き町並みを残している
という点で共通しているが、宿場町と農村という出自の違いによる、住宅の規模や配置の違いや、合掌造と寄棟造の違いが、見かけ上の最大の違いだろうか。
皆様にも、各々の好みや訪問可能なタイミングで実際に訪れて、違いを感じてみてほしい。

比較的小さな集落を散策し終えた頃、予約を入れていた三澤屋にて、名物のねぎそばを食べた。
1本の曲がり葱を箸代わりに使用して蕎麦を食べるもので、蕎麦には鰹節と大根おろしが乗せられていた。
最初は見た目の印象に目を引かれるが、葱箸の意外な使いやすさや、蕎麦そのものの味と香りの良さの為、きっとリピーターも多数出ることだろう。
また救済措置として、最初から割り箸が渡されるので、安心して挑戦してみてほしい。私は無事に全てを葱箸で食べ切ったが、葉に近付く程辛くなる曲がり葱を完食したことでやや悶絶した。
持ち帰りも許容されているので、後で焼いて味噌を付けたりして食べるのが賢明かも知れない。

ちなみに我々が大内宿を訪れた翌日に、ツキノワグマ出没で3日程、大内宿を閉鎖する旨の通告が出たのを、三澤屋のInstagramで確認した。
我々が偶然、熊がいない頃に来たのか、それとも三連休で人が多かったので熊が遠慮して出てこなかったのかは分からないが、とりあえずその後も怪我人の情報がなかったのを見て、一安心した。
現在の日本は、ひとまず戦争状態にはなくおおよそ平和だが、今年は各地で熊の出没と、その被害が過去最多となっている。一つ間違えば、我々も熊の餌食になっていた可能性もあっただろう。
会津若松城と大内宿を訪れて、どちらも素敵な紅葉を見ることができたが、紅葉は木に残るだけではなく、地面に落ちてもいる。
散った後も暫くは美しく、地面に彩りを与えるが、落葉は遅かれ早かれ朽ちていく定めにもある。そして残るものもまた、いずれは散りゆく定めにあり、諸行無常だ。
紅葉の明暗、落ちたものと残るもの。これは「光と影」が常に隣り合わせであることを教えてくれた。いつ散るかは分からないからこそ、生きていることに感謝し、人生を貫いていきたいと思う。




